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「こちらが、個人用の湯になります。」
支配人に、目的の場所まで連れて来られた… と思う。扉も、中の様子も見えないからな。
「えぇと、そうですね…」
「あぁ、少し、脱衣所や浴室について説明してもらえるか?部屋の広さとか、どこに何があるとかだな。」
「あ、はい。承知しました。」
支配人でさえ、盲人が一人で奥に入るという状況になって、ちょっと困ったようだ。なので、とりあえず中を説明してもらった。
「まず、こちらの扉の先が脱衣所になります。脱衣所はおひとり用なので、それほど広くはありません。」
扉を軽くたたきながら説明しているようだ。木の音がする。
「脱衣所の右側に棚がありますので、脱いだ服やタオルなどを置いておくことができます。ただ、インベントリーをお持ちの冒険者は、そちらに収納される方が多いようです。」
「あぁ、確かに、そっちの方が楽ではあるのか。」
「そうですね。なお、ここから先の部屋は、ユー様が入ると、他の方が同じ部屋には入れなくなります。ですので、盗難の心配はしなくても大丈夫ですよ。」
「個人用だもんな。わかった。」
個人浴場は、ソルットのプライベートビーチのように、プレイヤー毎に空間が用意される。だから、脱衣所や浴室で強盗に会うことは無く、従って、ロッカーや鍵の類も無い。なお、脱衣所にいろいろ置いたまま浴室で死に戻った場合、置いたものは勝手にインベントリーに戻るので安心だ。
一方、共同浴場や家族浴場は、その辺の管理を自分で行なう必要があるので、現実にあるような鍵付きロッカーもあるらしい。ただ、ゲーム世界なので、自分用のインベントリーに収める、という最強の方法があり、ロッカーの利用率は低いとのこと。
「続いて浴室ですが、脱衣所からまっすぐ進むと入ることができます。左側が浴槽、右側が洗場になります。浴槽は低い所にあるので、落ちないようにお気をつけ下さい。」
「なるほど。浴槽と洗場が離れているようだが、体を洗う時には、浴槽の湯を使っても良いのか?」
「かまいませんよ。浴槽の湯は補充されますし、冒険者の中には、最初に浴槽に飛び込む方もいらっしゃいます。」
いわゆる温泉マナーの類は現実よりも緩いようだ。とはいえ、俺自信は洗ってから入る派だな。その方が、身体の隅々まで温泉の効能が染み渡る感触を味わえると思っているからだ。
「最後に、奥に行くと木に囲まれた小さな浴槽があります。露天というほどではありませんが、雰囲気はお楽しみいただけるかもしれません。」
「ほぉ。いわゆる、夜風と温泉を味わいながらというやつか?」
「その通りです。本来は風景も付くものですが、そちらはご容赦くださいね。」
「それは問題無い。ちなみに、その木に触ったり、お湯がかかったりしても大丈夫か?」
「かまいません。でも、伐採したり傷つけたりしないでくださいね。」
個人浴場なのに露天風呂もどきもあるのか。共同浴場などにもあると聞いていたが、しっかりしていると思った。
なお、決められたエリアより外に出ることはできないので、よじ登って何とか… といったことも不可能だそうだ。プライベート浴室とか、パーティが強制分断されるとかの時点で、異空間の類にいるのだろうから当然の話だな。
「説明感謝する。では、行ってくる。」
「はい。ごゆっくり。」
さっそく木の扉に近づいて触れた。引き戸のようだったので横に引き、俺は脱衣所に入った。
脱衣所は、個人宅のお風呂の脱衣所と同じ程度の大きさだった。右側に手を出すと、確かに木棚があり、中身は空っぽだった。
では左側は?と思い手を伸ばしてみると、何やらガラスのようなものに触れた。触鑑定したら「鏡」だった。そして、上、下と触れてみた結果、洗面台は無い代わりに、大きな鏡になっているようだった。
俺は装備、その他服類を脱いで棚に置いた。杖とお風呂セットはインベントリーにしよう。
靴下を脱いだことでわかった脱衣所の床は、木製だった。ただ、水切りマットと思われるマットが敷き詰められているので、絨毯の上であるとも言える。
続いて、正面に手を伸ばすと、やはり木製の引き戸だった。取っ手を引いて奥へ入った。
扉を開けた時から聞こえていたが、左側からチロチロとお湯が流れている音がする。そして、脱衣所より二回りくらいは広く、音がよく響く浴室だった。地面の感触は石だ。
すり足気味に左側へ歩く。すると、足が石壁と思われるものにぶつかった。浴槽の仕切りだろう。
俺は、インベントリーから桶を出し、浴槽のお湯を掬って腕や足にかけた。お湯は、現実の温泉より少し温かった。39℃くらいだろうか?
では、入り口の壁に沿って、右側の洗場も確認してみることにした。
洗場は、現実の温泉施設で見られるものに近かった。桶などを置けそうな石棚と、その上に木製の椅子が置いてあった。椅子に腰かけると、石棚が腰の辺りにくるので、ちょうど良さそうだ。
そして、壁に触れているとボタンと、そこから延びている管を発見。ボタンを手のひらで押し込むと、そこから浴槽と同じ程度の温度のお湯が出て来た。もう一度押すとお湯は止まった。
どうやら、これで桶にお湯を貯めた後、その桶のお湯を体にかけるなどして洗い流す… といったやり方ができそうだ。
では、ひとまず体を洗うとしよう。お風呂セットから石鹸とタオルと思われる物体を取り出し、石鹸をタオルに練り込んでいく。確かまとめウィキでは、石鹸がシャンプーの効果も兼ねているため、こだわりが無いなら石鹸で洗え、ということが書かれていた。
そして、タオルを使って前進を擦っていく。このゲームにおいて、アバターからは皮膚垢の類は出ないそうだが、ゴシゴシという感触と、体に泡が付いて行く感覚は、現実のお風呂そのままだと思った。なお、「痛覚設定」をいじると、ゴシゴシのマイルドさが変わるぞ。
おっと、おくたんもここで洗っておくか。ゴーレムは洗わなくても良いらしいが、全身をじっくり触れる機会にもなるだろう。なお、魔道生物なので、こんなことで故障することは無い。
おくたんを装備なしで正面に召喚し、待機を命令。その上、お湯をかけた後、石鹸を全身に練り込むようにして洗っていった。
結果として、形状が蛸である故か、とにかく全身が柔らかかった。また待機を命令していたため、床にぺちゃっとなっていた。
その後、石鹸を流さずに歩けるかどうかを試してみた。結果、石鹸で滑るため、うまく歩けないことがわかった。雪原で使う時には、歩くための足にもアイスピックを装着するのが良さそうだ。
そうして、俺もおくたんも全身が泡立った。だから、仕上げとして、桶に湯を貯めて、その湯をかけることで、泡を、洗い流していった。
なお、ここで集水の魔法を使うと、ぬるま湯を手元に出すことができる。今の俺には無理だが、今後、魔法のレベルを上げると、桶なんか使わなくても、浴槽の水を頭上に出してぶっかけたり、お湯シャワーを再現したりできるらしい。
では、いよいよ浸かろうか。お風呂セットをインベントリーへ戻し、浴槽エリアへ移動。足から浸かっていった。
体にかけた時には少し温いと感じたが、全身が浸かると、しっかりとした温かさを感じられた。
手足を使い浴槽の中も散策してみたが、大きさは2メートル×3メートル、深さ50cmほどだった。個人用とはいえさすが温泉宿だ。
なお、後でまとめウィキで知ったことだが、プレイヤーの慎重などに合わせてサイズ調整が働くらしい。スライムとか巨人とかでも全身が入れるサイズになるので、場合によっては泉サイズの浴槽が出来上がるのだとか…
おくたんについては、浴槽に入り、水中を巡回するように指示。
結果、石鹸を洗い流したことで調子を取り戻したおくたんも浴槽に着水。くつろぎつつ、時より俺の体に引っかかるおくたんに触れる… という状態になった。ちゃんと水中を泳いでいることがわかって満足である。
では、最後に、露店空間に行くとしよう。
あれ?お風呂セットは… あぁ、インベントリーに入れたんだった。現実だと行方不明にならないよう近くに置いておくことが常識だったから、それに捕らわれてしまったようだ。
おくたんを送還した上で浴槽から上がり、露店エリアへ向かった。
露店エリアの入り口も木の扉になっていたので引いて開けると、外の空気のようなものは感じた。だが、濡れたまま外に出た時に感じる冷たさではなかった。
代わりに感じたのは、森で木に近づいた時にわかる木の匂いだ。木に囲まれているということだったからだろう。
少し前へ進むと、すぐに木の幹に手が触れた。触鑑定の結果は「ヒッツの木」だった。
右側に手を伸ばすと、木製の物体があった。触っていくと椅子であり、背もたれも付いていた。
そして左側… チロチロと音がしていたので予想していたが、探ってみるとやはり浴槽だった。
浴槽に足から浸かってみた。すると、確かにお湯なのだが、浴槽の外側との温度差を感じなかった。
そこで、この違和感がわかってきた。この空間自体がサウナのようなものになっているのだ。だから、寒さを感じないし、お湯の温度も高いとは感じないのだろう。
そして、置いてあった椅子の意味もわかってきた。森の温泉宿なので、椅子に座って森林浴もどきも楽しめる、空間が温かいからお湯に浸かった後でもOK、ということなのだろう。森林浴の意味が違う気はするが、そもそもE2が森の中なので、今更か。
なお浴槽の大きさは、1メートル×2メートルに縮んでいた。それでも、俺の慎重だと全身を伸ばして浸かることはできるので、十分過ぎるサイズと言えよう。
浸かった後は、椅子にも座ってみた。すると、通常なら肘沖と思われる部分が平たくなっており、皿やカップを置けそうなことがわかった。
試しに、浄水筒を出して水を飲んでみた。体が温まっているためか、飲んだ水はとても冷たく、そして心地よく体を巡っていく気がした。
ふと思い出してみると、このゲームを始めて、ゲーム内で1ヶ月ほど過ごした。ソルットでの生活が長かったからな。
ただ、ゲームの進行速度としては、ゆっくりであることには違いない。転移できる場所が4個所な上、北と西のルートは未開拓だ。その意味では、俺の冒険旅行はまだまだ始まったばかりだな。
さて。現実なら、そろそろ体がほてってくる頃だ。入力を終えて、飯でも頂くとしよう。
俺は浴室から脱衣所へ戻り、タオルで体を拭いた。一緒に入浴したおくたんも召喚して拭いたぞ。
そういえば、今回はナビーを頼りにしなかったな。まぁ風呂には干渉できないし、共同浴場などに行けば、その時には世話になるだろう。あそこは広くて道に迷いかねないからな。